のっと ばっど らいふ

「最高」を目指すのをやめたら、「悪くない」毎日が待っていた。

「死」の向こう側

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"「死」は、悲しむべきもの"


たぶん私には、その感覚が欠落している。

私が初めて「死」というものを身近に感じたのは、小学4年のとき。
母方の祖父の死だった。


あの日のことは今でもはっきりと覚えている。
そろそろ寝ようかという頃、病院から危篤の連絡が入り、取り乱す母をなだめながら、出先にいた父と合流した。病院へと向かう車の中に充満する母親の動揺。その重苦しさにつぶされそうになりながら、私はずっと窓の外を見ていた。
そしてようやく病院に着き、もう冷たくなってしまった祖父にすがりつきながら、まるで子どものように声をあげて号泣している、そんな初めて見る母の姿を、私は病室の入り口から、ただぼんやりと眺めていた。

 

もちろん、祖父のことは大好きだった。
口数は少なかったが、時々見せる祖父の笑った顔が大好きで、闘病中のやせ細った祖父の姿を見るのは辛かった。はやく元の祖父に戻ってほしいと心から願っていた。

 

けど、祖父が旅立ったあの日。
結局、私は一度も泣けなかった。

 

「あぁ、そっか。じいちゃん、死んじゃったんだ」

 

ただ、そう思っただけだった。

 


それから、恋人が亡くなったと知ったときも、
高校の同級生が急に事故で亡くなったと連絡を受けたときも、
父方の祖父母が亡くなったときも、
小学校の恩師が亡くなったと知ったときも、

 

私はいつも、涙を流し、悲しむ人たちをただ、眺めるだけだった。
「死」そのものというより、そんな人たちの姿に胸を痛めただけだった。

 


もちろん、大切な人たちには長く生きてほしい。
けれど、いざその時が来てしまえば、きっと私はまた同じように、悲しむ人たちを眺ながら、ただそこに立っているのだと思う。

 


そんな私でも小さい頃は、死ぬのが怖いと母親に泣きついたことがある。

 

今でも母はそのときのことをはっきり覚えているという。
そして、どう言葉をかければいいのかわからなかったと。

 

いま考えてみれば、きっとそれは死が必ず来るものだとわかっていたから、
だから、怖かったのかもしれない。

 


どんなに医療が進歩しようとも、「死」は必ず訪れるもの。

 

だからこそ、怯え、悲しみ続けていても仕方ない。受け入れるしかないことなのだと、私は思う。
それに、私は死からたくさんのことを学んできた。

 


祖父の死では、母親の弱さを知り、
恋人の死からは、自分の弱さ、そして愛を知った。
同級生の死で、今が当たり前でないことに気付いた。
父方の祖父母の死からは、生きることの意味を考えた。
そして、恩師の死は、私にとっての「死」を考えるきっかけになった。

 

きっとこれからも、私はそうやって生きていくしかないのだと思う。
そんな人とは違う「死」の向こう側を感じながら、私自身に、その日が訪れるまで。